ブームを越えたAIの現在地と人間のこれから
「AIブームは一過性にすぎない」。その言葉を目にしたとき、ふと立ち止まった。
確かに、流行という観点で見れば、AIもやがて落ち着きを見せるのかもしれない。
だが現実には、AIはすでに私たちの日常に浸透している。スマートフォンのように、インフラの一部のように、知らないうちに私たちの判断や生活習慣に関与している。
もはや「AIをどう扱うか」という視点では不十分だ。いま問われているのは、「AIが当たり前になった社会で、人間はいかに生きるか」という本質的なテーマである。
AI時代に求められるのは“考える力”──スキルの本質とは?
現代では、AIリテラシーやプログラミング、業界特化スキルが注目されている。しかし、それらは「できる人間」になるための要素にすぎない。
重要なのは、「なぜそれを学ぶのか?」という問いを持つこと。 問いを通じて自らの選択に意味を与えられる人は、AIに代替されない価値を持つ。
曖昧さに耐える力、意味を編み出す力、問いを手放さない勇気。それこそが、これからの人間に求められる“思考する力”であり、本質的なスキルとなる。

複雑な社会構造と自然の営み──人間はどこへ向かっているのか?
利便性や生産性を求めて発展してきた人間社会は、ある意味で「自然から遠ざかる道」を歩んできた。
一方、自然界を見れば、動物や昆虫、野鳥はただシンプルに“生きている”。 彼らには役職も資格もないが、地球の循環の中で確かな役割を果たしている。
その姿は、私たちが忘れかけた「生きるとは何か」という感覚を思い出させてくれる。 社会が複雑になるほど、人間は“生きている感覚”を失いがちになるのかもしれない。
AIに任せるという選択が、人間を自由にする可能性
AIは判断や管理、計算を得意とする。それを「脅威」と捉える声もあるが、見方を変えれば、AIに任せることで人間は“決定疲れ”から解放されるとも言える。
私たちは、常に“上に立ちたい”“支配したい”という欲望にとらわれがちだ。 しかし、支配されることを恐れずに、「委ねる」ことができたとき、人間はようやく“自由に生きる”ための余白を手にできるのではないか。
合理や最適化の外側にある、“間違いながら考えるゆるさ”──それを許すことが、これからの人間らしさを支える大切な要素となる。

AIが当たり前の社会で、人間が失ってはならない“問い”
AIは、膨大な情報を処理し、合理的な選択肢を提示することができる。 だが、「どの選択肢を選びたいか」という“価値判断”は、あくまでも人間に委ねられている。
だからこそ、私たちは問い続けなければならない。
- なぜそのスキルを学ぶのか?
- なぜ忙しさを感じるのか?
- 社会に順応する中で、私は何を失ってきたのか?
これらの問いに正解はない。 けれど、その問いを抱き続けること自体が、AIにはできない“人間固有の能力”であり、 同時に、これからの社会を生き抜くための“羅針盤”となるはずだ。
終わりに──テクノロジーの時代に、“人間であること”を選び続ける
AIが空気のように社会に溶け込む未来。 そこで問われるのは、「私たちは何を選び、何を感じ、何を信じて生きていくのか」ということだ。
情報にあふれた時代に、あえて“思考すること”を手放さない。 自動化された世界に、あえて“ゆらぎ”を許す。
それが、AIにはできない人間らしさであり、 これからの時代を歩くための、確かな力になる。
人間が人間であり続けるために。 問い続けることを、あきらめないでいたい。

あとがき
このブログは、筆者である”わたし”が変化し続ける”いま”を記録したものです。
このページを手掛ける前と後で、”わたし”の”いま”すでに変化しています。
更に、あとがきを手掛ける”いま”、改めてAIとの向き合い方に考えさせられます。
AIを操る人間となるのか?
人間を操るAIとなるのか?
地球の一部である、”わたし”の”いま”はAIの活用で地球のために、
「何ができるだろう?」そんな”問い”と向き合っています。
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