心/こころはどこにもない──でも、たしかにある
前回の記事では、「心」と「こころ」という言葉の響きや意味の違いについて掘り下げました。
漢字の「心」は意志や理性とつながり、姿勢を整えるような“強さ”を持ち、
ひらがなの「こころ」は曖昧さや感覚の余白を大切にした、やわらかい“気配”をまとっていました。

けれど、ふと思うのです。
そもそも──
「心」や「こころ」と呼ばれる“それ”は、本当に“存在している”のでしょうか?
私たちは日々の会話や文学、医療、心理学など、あらゆる領域で「心」という言葉を使います。
けれど、それがどこにあるのか/何なのかを、明確に説明できる人はいません。
だからこそ今、あらためて問い直したくなったのです。
**「心とは何か?」**というシンプルでいて根源的な問いを。
見えないけれど感じられる“それ”の正体を探るために、
ここから、科学・哲学・文化的視点を交えながら、その輪郭をゆっくり辿っていきます。
導入|懐疑から始まる問い
ふと立ち止まるように、こんな疑問が浮かぶことがある。
「心」や「こころ」と呼ばれるものは、本当に“存在”しているのだろうか?
私たちはこの言葉を、当たり前のように使っている。
会話の中で、文学作品の中で、心理学や医学の領域でも。
ときには、「あの人には心がない」などと非難の対象になることさえある。
けれど、その「心」とは一体何なのか。
明確に定義できる人は、ほとんどいないのではないだろうか。
それだけ広く使われながらも、
「心」という存在の正体は、誰にも掴みきれていないのだ。
科学的視点|脳が生み出す”心”という現象
現代の神経科学や脳科学の分野では、
「心」とは脳内で起こる電気信号の連鎖反応によって生まれる現象だと考えられている。
つまり、「心」は身体のどこかに存在する“モノ”ではなく、
ニューロン同士の情報伝達が一時的に生み出すプロセスだという立場だ。
実際に、脳のどの部位にも「心」という名の器官はない。
MRIや脳波測定によって把握できるのは、
「感情が活性化している箇所」や「判断に関与している領域」など、活動の痕跡にすぎない。
「心そのもの」は、いまだに可視化できず、場所すら特定されていない。
哲学的視点|「ある」とは何か?主体性の根源としての心
哲学者ルネ・デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」という有名な命題を残した。
これは、思考する自分の存在こそが、確かな“実在”であるという主張だ。
しかし近年では、この“思考の主体=心”そのものさえも、幻想ではないかという議論が進んでいる。
たとえば、仏教思想における「無我」という考え方では、
心には固定された実体がないとされている。
もし「わたしが感じている」と信じているものが、
すべて脳の錯覚に過ぎないとしたら──
私たちは、何を「本当」だと思えばいいのだろうか?
文化的視点|”定義しない”という日本的な知恵
日本語には、「心」と「こころ」という二つの表記がある。
それは単なる表記の違いではなく、意味や感性の違いをも映し出している。
「心」という漢字には、理性や意志、構えといった“明確さ”があり、
「こころ」というひらがなには、曖昧さや余白、そして感覚の“やわらかさ”が宿っている。
こうした両義的な表現は、日本文化の深層にある美意識ともつながっている。
たとえば「空(くう)」や「無」を尊ぶ思想は、
定義しきれないものをそのまま受け入れる知恵といえる。
私たちは「心」を、“在る”とも“在らない”とも断定しないまま、
ただ感じる存在として、言葉のなかに宿してきたのかもしれない。
浮かび上がる輪郭|それでも、感じてしまう理由
「心」は、本当は存在しないのかもしれない。
でも、それでも、わたしたちは“それ”を感じてしまう。
誰かのやさしい言葉に涙がこぼれたり、
何気ないまなざしに救われたとき、
そこにはたしかに“何か”があったとしか思えないのだ。
もしかすると、「心」とは——
“ある”と感じたときだけ現れる、鏡のような存在なのかもしれない。
見えないし、触れられない。
それでも、わたしたちは「心」を信じ、語り、誰かに届けようとする。
締め|不確かさを抱きしめる「わたし」
今もなお、私は「心」と「こころ」の正体を知らない。
その意味も、存在も、きっと明確には言えない。
それでも、分からないまま感じ続けている。
分からないことを、そのままにしておく勇気。
言葉にしてみること。疑ってみること。
それでも向き合おうとすること。
そんな一連の行為そのものが、
もしかしたら、私という存在を静かに形づくっているのかもしれない。
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