—漢字とひらがな、その”境界”に立つわたし—
「心」と「こころ」はどこにあるのか?
ある夏の日、私は空に向かって静かに祈った。
風が心地よくて、太陽の光が両手にそっと触れる感覚。
草木や虫たち、川や空、そして太陽に向けて——
「わたしに元気を分けて」と、心の中で願った。

あの瞬間、私の中で確かに何かが動いた。
それは「心」からの祈りだったのか、それとも「こころ」の声だったのか。
それ以来、私はこの2つの言葉に、自然と意識を向けるようになった。
「心」と「こころ」。
どちらも私たちが日常的に使っている言葉だけれど、
よく見てみると、それぞれに異なる響きと輪郭がるように感じる。
「心」とは何か?———漢字が示す精神性のかたち
「心」という漢字は、古代中国から日本に伝わってきた文字。
もともとは心臓のかたちを象った象形文字で、
時を経て「感情」や「意志」「思考」の中心を表す言葉になった。
また、仏教・儒教・禅といった思想においても、「心」は精神や内面を整える存在として重要視されてきた。
たとえば──「心を修める」「心構え」「真心を込める」など、
“意志”や“理性”が宿る場所として、「心」は使われてきた。
私自身、「心」という言葉を使うときは、
感情を立て直したいときや、前向きな姿勢を取り戻したいときが多い。
たとえば誰かの言葉に傷ついたとき、
「気にしない」と自分に言い聞かせるその行為も、
“心を整える”という働きなのかもしれない。
「心」には、どこかはっきりと定義したいという意志がある。
確かな形を持ちたいという、内面からの“力”のようなもの。
だから私は、「心」という漢字にふれると、
自然と背筋を伸ばしたくなる。
「こころ」とは何か?———ひらがなが生む、やわらかな感性
一方で、「こころ」というひらがな表記には、
漢字とは違う、曖昧さと余白の美しさがある。
ひらがなは日本独自の文字で、
万葉仮名から派生し、音や感覚を包む柔らかさを大切にしてきた。
「こころ」という表現には、
意味よりも**“感じること”の重み**が宿っている気がする。
私が「こころ」と言いたくなるのは、
理由のない涙が流れるときや、
季節の風にふと懐かしさを覚えたとき。
あるいは、誰かの手のぬくもりに触れて言葉を失ったとき。
そんな瞬間には、「心」よりも「こころ」のほうが、しっくりくる。
「こころ」は、定義を超えたもの。
不確かで輪郭がぼやけているけれど、たしかに“そこにある”。
それはきっと、日本人の感性に根づく“空気を読む力”にもつながっている。
境界に立つわたし———「心」と「こころ」の重なり合い
私にとって、「心」と「こころ」は、まるで光と影のように補い合う存在だ。
明確に形づくりたいときには「心」を使い、
静かに感じていたいときには「こころ」が浮かんでくる。
そのどちらも、私の内面に必要な要素だと感じている。




日本語という豊かな言葉のなかに生まれ育ったからこそ、
私は「心」と「こころ」両方の表現を持つことができる。
強さと優しさ、明快さと曖昧さ。
それらが混ざり合いながら、私は日々を歩いている。
心は本当に「存在する」のか?———見えない”それ”をめぐる問い
❓とはいえ、最近こんな疑問も浮かんできた。
「心」や「こころ」は、ほんとうに“存在”しているのだろうか?
私たちは当たり前のようにこの言葉を使うけれど、 それはもしかすると、脳が生み出した“幻想”なのかもしれない。
🧠 科学的には、心とは神経活動の一部であり、
哲学では、主体性(我)があるからこそ心があるとされる。
仏教においては、「心」そのものが実体のない“無我”だと説かれることすらある。
🔍 それでも私たちは、「心が苦しい」「こころが動いた」と感じてしまう。
誰かの言葉に救われたり、傷ついたりするとき、
そこには“たしかに在るような何か”を感じずにはいられない。
見えないけれど、たしかに感じる”こころ”のかたち
「心」や「こころ」は、
在ると信じた瞬間にだけ現れる、鏡のような存在なのかもしれない。
見えなくても、触れられなくても、
それでもわたしたちは、感じ、語り、信じようとする。
言葉にはできないけれど、
確かにそこにある何か。
その曖昧さを受け入れながら、
私は今日も、“わたし”としてここにいる。


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