定義された言葉に、実感が追いつかない
「アイデンティティとは何か?」という問いは、すでに無数の定義によって語られている。自己同一性、連続性、他社との差異、自分らしさ…。けれども、私の中でこの言葉は、未だに腑に落ちない。
私は”アイデンティティ”を知っているつもりだった。しかし、その意味を自分の中で扱える感覚はなかった。あの言葉は、理解ではなく「音の響き」だけだった。
セルフアウェアネスがなければ、アイデンティティに辿り着けない?
あるとき、こんな疑問が浮かんだ。
「セルフアウェアネス(自己認知)が働かないまま、人は”本当のアイデンティティ”を語れるのだろうか?」
たしかに、自分の特性や信念、他者との違いについて言語化できる人は多い。
けれども、それが「本当の自分」なのか?
それとも、「そう思い込んでいる仮の自己像」なのか?
認知バイアスというフィルター
心理学によれば、私たちは常にバイアスの中で生きている。自己奉仕バイアス、確証バイアス、ステレオタイプ、文化的刷り込み…。
つまり、私が「私はこういう人間だ」と語るとき、それはすでに
- 自分の都合のいい視点
- 社会からの期待と折衷案
- 過去に”選んだ”自分象の延長
…が折り重なった構築物かもしれない。
それでも、私たちはそれを「自分」だと思って生きている。

セルフアウェアネスは、その構築物を揺るがす視点
セルフアウェアネスとは、自分の思考・感情・行動に対して
「今の自分は、なぜそう思ったのか?」
と問いかけるメタな眼差しだ。
この機能が働くとき、”私のアイデンティティは一時的に不安定になる。”
なぜなら、それはこれまで「信じてきた自分象」に対して、疑いの目を向ける行為だから。
けれども同時に、
揺らぐことができる”自我”だけが、自由になれる
という逆説に私は魅せられている。
両立ではなく、”往復”として捉える
私は、このように考える。
アイデンティティとセルフアウェアネスは「両立」ではない。
それは、行き来する”往復運動”だ
- 生活の中で”仮の私”を構築する
- セルフアウェアネスがその像を疑い、解体する
- そして、更新した”暫定の私”で生きてみる
この往復が続く限り、私たちは未定義であり続けながらも、確かに”私”を感じられる。
「私はこうだ」と言い切れない自由
かつて私は、”定まらない自分”に焦燥感を覚えていた。
しかし今は、その未確定な自分を自由と呼びたい。
定義しきれないものこそ、私のアイデンティティ
フィルターの存在に気づけたとき、その一部は自分で書き換えられる。
私は今日も”未定義のまま”生き、問いを持ち続ける。
まとめ──未定義のまま問いを持ち続ける
アイデンティティはセルフアウェアネスによって揺れ動き、セルフアウェアネスはアイデンティティによって対象を得る。
二つは静止画ではなく動画のように循環している。
この記事と連動する記事「アイデンティティとは何か──セルフアウェアネスで”未定義のわたし”を可視化する」では、コードを使って”私”を可視化する試みを紹介した。
合わせて読むことで、概念と実践の両論がより立体的に見えてくるだろう。
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