ポピュリズムが支配する社会で、わたしの思考と感情は誰のものか?

超ニッチ図鑑

メディアの特別対談が投げかけた違和感

YouTube チャンネル『マイキーの非道徳な社会学』のライブ配信 「僕が認める天才達との非常識な特別対談。あなたは内容に着いて来れますか?」 を視聴した。

この対談で交わされた議論は、生活者のローカル視点社会構造を俯瞰するマクロ視野の間に横たわるギャップを浮かび上がらせる。

「ローカル視点で暮らす限り、背後の構造は見えない──それこそが危うい」

この言葉は登壇者の発言ではない。対談が放った空気が私に刻んだ”問い”だ。


この”対談”がなぜ成立したのか──裏にある構造

  • 発端はマイキー氏へ強い意見をぶつけた”ある人物”の主張。
  • 議論は”誰かのバイアス濃厚な主張”を軸に組み立てられていた。

あの対談は、ある”人物”によるマイキー氏への強い意見表明をきっかけに企画されている。
つまり、議論はすでに「誰かの主張に向き合う」という構造を内包していた。

この構造に違和感を覚えた。
なぜなら、その人物の意見が論理的であるかどうかでなく、
”バイアスの濃さ”そのものが、ある種の”話題性”として機能していたからだ。

そして、話題性の背景に視聴者に向けた”メッセージ”が込められている、と感じ取った。


”リアル”と”構造”の間で生じる盲点

生活者の症状構造的メカニズム
物価高為替・サプライチェーン・エネルギー価格
ガソリン代原油市場・税制・地政学リスク
年金不安少子高齢化・積立方式の限界

目の前の物価高、ガソリン代、年金不安──肌感覚は切実

だが統計や世界比較を見ると、原因は為替や地政学、制度設計にある。

生活実感とマクロデータが噛み合わない から、議論がすれ違う。

気づき: 生活者は「症状」を話し、エリートは「メカニズム」を語る。 共通言語がないと、両者は互いを「分かっていない」と断じてしまう。


知能と感情の”ねじれ”にある落とし穴

  • 高い知識レベル ≠ 感情の統御
  • ”論理のコスプレ”をした欲求や恐れが、正論として拡散される
  • 「考えているようで感情を正当化している」──このねじれを自覚できるか?

ときに、あるラインを超えた知的水準に達すると、
人は感情に蓋をする代わりに、感情を”論理の衣”で装うようになる。

それは、一見すると理知的で正当な主張に見える。
だが実際には、欲求や恐れが言葉を支配し、”正しさ”に変換されていることもある。

”考えているようで、実は感情を正当化している”
このねじれに、私たちはどれだけ自覚できるだろうか?

認知バイアスが”わかりやすい敵”を求めるとき

  1. 確証バイアスで「安心できるストーリー」に集まる。
  2. SNSは怒りをブーストし、多元的視点を排除。
  3. ”敵/味方”の二元論が固定化し、複雑さは忘却される。

自国礼賛や陰謀論──確証バイアス が「安心感のある物語」を優先させる。
SNS のアルゴリズムは“怒り”を拡散させ、多元的な視点 を奪う。
結果、「敵 / 味方」の二元論が強化され、複雑な問題は排除される。

問い: 私が今感じている怒りや正義感は、本当に自分の言葉だろうか?

ポピュリズムという”感情政治”の落とし穴

  • 敵の設定感情動員デメリット隠蔽の三段構え
  • 排除で排除に対抗すれば、鏡写しの構造が増殖する。
  • ”わかりやすさ”の背後で、思考する自由が奪われていないか?

敵を設定し、感情を動員する
デメリットやコストを語らない
排除に排除で応酬すると、鏡映しの構造が再生産される

「賛成党」「財務省悪玉論」など具体例も挙がったが、要は

“わかりやすさ” と引き換えに “思考する自由” を手放していないか?


島国である日本で思考軸がズレる理由

  • インターネットは世界を可視化したが、同時に”自文化バイアス”を強化
  • ローカルとグローバルを行き来する”思考の中継地”を持つことが必要

日本は大陸から切り離された、文化的に”孤立”した島国だ。

この構造的条件は、思考の軸に影響しているのではないか?
インターネットの普及によって、”世界”は可視化されたように見えるが、
逆に”自分たちの常識”を強化する方向にも働いている。

ローカルとグローバルを行き来する思考の”中継地”を持てているか?
その問いは、今の私たちにとって切実なものだと思う。

セルフアウェアネスで思考の浮力を取り戻す

  1. 感情にラベルを貼る:これは私の怒り?それとも植え付けられた不安?
  2. 沈黙と複雑さに耐える:即断即決より”未解決の問い”に居続けることへフォーカス
  3. ローカル ⇄ 構造を往復:実感を起点にデータと歴史で検証

選ばせる社会で”選び取るわたし”を生きる

民主主義は“国民の平均値”だと言われる。
もし平均値がポピュリズムに傾けば、政治家だけを責めても構造は変わらない。

自分の思考と感情をメンテナンス──それは小さいが強力な政治参加

結局のところ、「わたしの思考と感情は誰のものか?」と問い続ける姿勢こそ、ポピュリズムの濁流を泳ぎきる”浮力”になる。

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思考がねじれる瞬間─認知バイアス・知性・島国という構造
バイアス・知性・感情が交差する“思考のねじれ”を、日本という島国の文脈で読み解きます。議論が炎上する構造、ネット以後の思考軸のズレ、多層視点でバイアスをほぐす方法を整理し、問いを立てる力で思考を取り戻す実践ガイド。

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